古書宇宙
ポン
軽いチャイムの音がして、『次停車』のランプが点灯する。
「次、停まります。お忘れ物のないようご注意ください」
そんな車内アナウンスが流れる。
いつもと同じ帰宅バスの風景。ただ違うのは、私が停車ボタンを押したのは、いつも通り過ぎてしまう、最寄りのバス停より2つ手前の停留所のアナウンスの直後だった、ということだ。
いつも通り過ぎてしまうそこに、その店があることに気付いたのは最近のことじゃない。
古ぼけた店に、古ぼけた看板が一つ。
『古書宇宙』
祖母の時代からそこにあったのではないか、と思われる程の、バスや車の排気ガスで煤けたその古本屋と見られる店は、営業しているのかどうかもよくわからない、今まで客が入って行くところも出て行く姿も見かけたことがない、けれどもなんだか気になる、存在感のある店だ。
気が着いた時には、私は毎日の行き帰りにその店を覗き込むことが日課になっていた。
覗き込む、と行ってもその店は、ちょうど停留所と停留所の間ぐらいにあり、近くに信号もないものだから、バスは足早に通過してしまう。その一瞬の間に、その店が今日も存在しているな、ということを確認するようにちらり、と覗くだけの話。だから、自然と私の指定席は、その店が見える側の窓際、と決まっていた。
駅から遠く、バス車庫から近い我が家は、ありがたいことに大概の場合、ラッシュ時でも座ることができる。だから私は、多少前後することはあるけれど、大概が前方の独り掛け席に座ることが多かった。
ごくたまに、バスや大型トラックなどとすれ違ったりして、その店が見られないことがあった。それは大概反対車線を走る朝のことで、そんな日は朝から一日なんだか乗り気になれないのだ。
そこまで心を奪われていながら、今まで何故その店にいかなかったのか。
私の想像の中で、その店はとても素敵に出来上がってしまっていたので、そのイメージを崩したくなかったのだ。
だって、なんだかいわくありげな外観(それは、他の人から見ると、ただ古いだけなのかもしれない)、古書店でありながら『宇宙』という屋号(それだって、店主の勝手だ)、そして、客も、店主らしい人物も見たことがない(四六時中見張ってるわけじゃないんだから、余程客足の多い店でもない限り客が入る瞬間など見えるわけがないし、曇り硝子の扉から中の店主が見えるわけもない)、という理由で、勝手に妖しげな店というイメージを作り上げて楽しんでいたから、現実には、ごく在り来たりな店でした、というのを知るのが嫌だったのだ。
それが、なんだって今頃になって、実際に行ってみる気になったか、と言えば、来月、あと数週間でこの町から引っ越してしまうからだ。
おそらくこの町にも来ることはないだろう。何かのついでで訪れたとしても、まず行く機会はないだろう。私がいなくなった後で、店じまいしてしまうかもしれない。大体あそこがまだ、営業されているかどうかもよくわからない。
それで、意を決して店に赴くことにした。
引っ越しが決まったのが半年以上も前の話だから、決意するのにかなり時間がかかってしまった。ようやく重い腰を上げて、という感じなのだ。
停車ボタンを押す指にも力が入るというものだ。
アナウンスが、停留所名をきちんと言い終わるのを待って、儀式のようにボタンを押した。
平然とした顔を装ってはいたけれど、それに無理があったのか、知らないおじさんがちらり、と私の方を見た。
私は、このおじさんに私の企み(という程大仰なものでもないのだけれど)が見透かされているような気がして、妙に意識してしまい、少し不自然な感じでステップを降りる。
さて。
バスを見送ってから、ようやく歩き出す。
店まではしばらく、このバス通りを歩いていかなければならない。
少し後悔。
少し好奇心。
ともかく、緊張して、私の心臓はいつもより余計に動いている気がする。
とぼとぼと、道を歩く。
車が数台、私を追いこしてゆく。
煤けたその店が見えて来た。
少し早足になる。
何となく辺りを見回す。車も、人も、自転車も、何も通ってはいない。
そおっと店に近寄って、曇り硝子から店内の様子が見えないものか顔を近付けてみる。
見えない。
けれど、中から小さくラジオのような音が聞こえていた。
よし、入ろう。
木枠の引き戸を開ける。
キキキキと扉の軋む音がして、ゆっくりと今、古書宇宙の全貌が明らかになる。
それは、古めかしいだけで、他の古本屋と大差のない店だった。
少し拍子抜けしながらも、中に入って扉をしめる。
店の奥のテーブルには、老婆が一人座っていて、私の存在など全く無視してラジオを聴きながらレース編みを続けている。
耳が遠いのかもしれない。声をかけた方がいいのかな?でも、耳が悪いにしたらラジオの音が小さすぎるような気がする。
そぉっと首をのばして、その老婆の様子を伺う。なんだか、気難しそうな、偏屈そうなお婆さんだ。
「ニャー」
いきなりの声に、ひっくり返ってしまいそうになる。
見ると私の足下に白黒の猫がすりよって来た。
あたふたと慌てふためいてバタバタしているのに、老婆はまるで私には関心がないようだ。猫の方が、私の接客をしてくれているようだ。
撫でよう、と私がしゃがみ込んだら、猫はもう一度ニャーと鳴いて、しっぽを私の足にぽん、と当て、店の奥の方へと歩いてゆく。
着いてこい、って言ってる。
私は何故か確信を持って、その猫の後を着いて歩く。
いくつもの古い木の棚に、いくつもの本が並んでいる。
古本独特の不思議な古めかしい匂いで満ちている。
やはり、ここは古本屋だったんだな。
猫の後を追いながらも、私は本棚に並べられている本の背表紙を眺めて歩く。
……おや?
何か違和感を覚える。
なんだろう?
猫は3つ目の棚の前で立ち止まって私を待っているように振り返る。早く来い、とでもいいたげな目つきで。
仕方なしに、猫の後をつける。
3つ目の棚を曲がって、奥の棚に回り込む。そこで猫は立ち止まって、またニャー、と鳴いた。
私もその棚の前で立ち止まる。
何かあるのかな?
たくさんの背表紙を追っていた目は、一つの本の前で止まる。
それは濃紺の布が貼られた本だった。背表紙には何も書かれておらず、私は無意識にその本を手に取る。
スピカ
濃紺の布が貼られた表紙には、少女が書いたような、活字らしくない書体で銀色の箔押しがされていた。そして、そのタイトルと思しきその文字の下に、小さなダイヤモンドのような光り輝く石が埋め込まれていた。
作者名らしきものは何も書かれていない。ただ、表紙に銀の『スピカ』の文字。
私は、ふらりと、中も確かめずにその本を抱えて老婆のいる、レジらしきテーブルに向かう。
何だろう?
なんだか不思議な気分だ。
古本の匂いに酔ったのだろうか?
それとも、猫に化かされたのだろうか?
白黒の猫は、私の先回りをしてそのテーブルに 向かい、とん、と飛び上がって招き猫のようにそこに座って顔を洗った。
何も言わずに、老婆にその本を差し出す。
老婆は鼻の上に乗せた丸い眼鏡の上から私をじろり、と眺めて言った。
「2386円」
2386円?
あぁ、そう言えば私はこの本の値段も見ていなかった。いや、値段なんて着いていたっけ?
そう思いながらも、その中途半端な金額を怪訝に思いながら財布を開ける。
「あ……」
思わず声が漏れる。
札入れには、千円札が一枚しか入っていなかった。
焦りながら小銭入れを開けると、500円玉が2枚。100円玉が3枚……財布の中身の全てを合わせると、きっちりその老婆が言った金額になった。
老婆は私から代金を受け取ると、『古書宇宙』と印刷された紙袋に本を入れ、私に手渡して、またレース編みの続きを始める。
老婆の代わりに、猫はまた一つ鳴いた。
ニャー
『古書宇宙』の紙袋を抱えて、ゆっくりとバス通り沿いを歩いてゆく。
やっぱり、あの店はただの店じゃなかったんだ。
もう一度、しっかりと紙袋を抱き締める。中には固い本の感触がある。私は間違いなく、本を買ったらしい。
とぼとぼと歩いてゆく後ろから、バスが私を追いこしてゆく。
そう言えば……
おぼろげな違和感は、ゆっくりと輪郭を現してくる。
あの古本屋に集められた本、どのタイトルも、作者も見覚えがなかった。私は読書が趣味だから、かなり文学作品には詳しいつもりでいたけれど。
そう言えば、ああいう古本屋には、必ずベストセラーの類いや、発行部数の多い文学作品などが必ずあっていいはずなのに、何もなかった。
いや、それよりも……あそこの本は、出版社のわかるようなマークやなにかがなかったのではないか?
……ちょっと、待てよ……
恐る恐る振り返ってみる。
私の視力の限界のところで、なんとか古書宇宙は見えている。
「ニャー」
猫の鳴き声に驚いて振り返る。
そこには何もいない。
空耳?
私はもう一度、紙袋の上から触ってみて、そしてこっそりと袋を開けて中に本が入っていることを確かめる。
『スピカ』
間違いなくその本があることを、その表紙に貼られた布の感触を確かめて、家路を急ぐ。この本を早く読んでしまうために。
<FIN>
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