水中花


 うだるような暑さで大都会さえ溶けてしまうのではないかと思われるある夏の昼下がり、私はとある雑貨屋を訪れた。
 おしゃれなファッションビルの立ち並ぶ都会の真ん中の、今にも崩れ落ちそうな古いビルの2階にある雑貨屋。「知る人ぞ知る」と言う類いのその雑貨屋には、その日も私以外に少女のお客が一人来ているだけだった。
 薄暗い店内には絢爛豪華なクラシック音楽が流れている。店主はいつものように奥の机に座り、曖昧な表情で文庫本のページに目を落としていた。
「何か面白い物は入りましたか?」
 私はいつものように狭い店内を一周してから、店主に訪ねる。見るだけで心の和むような、ちょっと変わった品々の並んだ店内は、何も買わなくても幸せな気持ちを与えてくれる。一種お守りのような空間だ。
 店主は読んでいた文庫本から目を逸らして私の姿を認めるといつもの曖昧な笑顔を浮かべて机の奥から何か包みをとりだして私によく見えるように机に広げる。それは緑色をした、錠剤のようなものだった。
「ええ、水中花の種が入りました」
「水中花、ですか?」
 私の後ろでアクセサリーに見入っていた少女が興味を示したようで、その緑の粒を私の肩ごしに覗き見る。
「これを水に蒔くと、何日かで芽が出て花が咲きます。花が咲けば1ヶ月ほど持ちますよ。赤に黄色にオレンジに紫が入荷ってます」
「また、お高いんでしょう?」
 ここには確かに珍しいものがたくさんある。しかし、そのどれもがそれなりの値段なのだ。手が出ない程ではないが、一瞬戸惑ってしまう。
「いえ、煙草一箱と同じ値段です」
 煙草一箱我慢して、1ヶ月も水中花を眺められるならそれもいいか。
 私はその水中花を買うことにした。
「一ついただけますか?」
「ありがとうございます。これは水中に咲く花ですから、決して空気に触れさせないでください。空気に触れると枯れてしまいます。さて、何色にしましょうか?」
「赤色を」
 緑色の種を小さな袋に入れて金を受け取ると、店主は何事もなかったかのように再び文庫本に目を落とす。
 私も再び熱帯のごとき都会に紛れ、家路を急ぐ。心は水中花に捕らわれたまま。

 とっておきのクリスタルグラスに水中花の種を入れて数日後、芽が出た。小さなエメラルドのように輝く芽。
 私はうれしくなって、近頃流行の外国の高い山でとれたミネラルウォーターをドボドボと注いだ。
 翌日グラスを覗くと、双葉が顔を出していた。
 私はたのしくなって、もう少し大きくなった水中花の水にほんの数滴赤インクを混ぜてみた。水は赤く染まり、その翌日には赤い花のつぼみをつけた。
 つぼみはついたものの、花はなかなか咲こうとはしなかった。固いつぼみは少しも膨らまない。少し寂しくなったので、金魚を一匹入れてみることにした。緑の茎の間をゆるゆると泳ぎ回る金魚は涼し気で、花が咲かなくても少し心が和んだ。水中花の方は何の変化もおこらなかった。しかし、金魚の方は、3日めに干涸びてしまった。勢いよく跳ねて、グラスの外で干涸びたわけではなく、朝起きてグラスを覗いたらミイラと化した金魚が水中に漂っていたのだ。
 不思議なこともあるもんだ、と私は金魚を庭の隅に埋めた。

 数日後、ようやく水中花は咲いた!
 真っ赤なガーベラに似た花はグラスの中でゆらりゆらりと笑う。
 私は夢を見た。コポコポと心地のよい音の中で、私は漂っていた。透明の液体の中でゆらゆらと海草のように揺れた。そして遠く液体の果てにグラスの中の花が笑っていた。
 赤い花の嘲笑する姿に飛び起きると、軽いめまいがした。ほんのりとアルコールに酔った時のように、頭の中がゆれていた。
 いつから眠ってしまっていたのだろうか?昨晩は仕事から帰って例の水中花を覗き……そう、真っ赤な花が咲いていたのだ。そこまでの記憶はあるのだが、それから私は何をしたのだろうか?いつの間に死装束のような真っ白のパジャマに着替えたのだろう?昨日はアルコールなど一滴も口にしてはいないのに。
 記憶をなくすほど疲れていたのか?
 何となく後味の悪い思いで服を着替える。もう出勤の時間だ。仕方がない、今朝は朝食抜きだ。
 出掛けに水中花のグラスにちら、と目をやる。やはり真っ赤な花が咲いている。

「やぁ、お待ちしていたんですよ」
 昼下がり、近くに寄ったついでに覗いた例の雑貨屋で、ドアを開けた途端に店主が声をかける。
 珍しいこともあるものだ。この店主から声をかけられたのは初めてのことなので少し驚いてしまう。
「この前お売りした水中花なんですが、とんでもない不良品であることが判ったんですよ。代金はお返ししますので、水から上げて、よく乾燥させてからお持ちください。まだお使いになっていないのでしたらよろしいのですが」
「いえ、昨日花が咲きました。ところでどんな不良なのですか?」
 どんな不良だと言うのだろうか?花なら昨日綺麗に咲いた。花が長持ちしないのだろうか?
 店主は目を丸くして私の姿を眺める。
「いや、御無事でしたか。どういうわけかあの水中花にはひどい幻覚作用があるようなので……悪い事は言いません。早く水から引き上げた方がよろしいです。海外では死者まで出ているということですから」
「死者ですって?幻覚で死ぬんですか?」
「いえ、溺れる幻覚を見て、実際にベッドの上で溺れ死んだんです」
 成程、そういうことだったのか!
 私は急いで店を出て、そのまま家に飛んで帰る。
 そこには朝家を出た時と同じように、真っ赤な花がグラスの中で揺れていた。
 こんな花が煙草一箱の値段で買えるなんて。
 急いでパジャマに着替え、花の前に座る。水はじんわりと私を浸す。ぴったりと口を閉じたまま、部屋中を水が満たしてゆくのを眺める。
 微かな陽炎。いや、これは水の流れ。水中を陽の光が渡っているだけ。
 眠ってしまうものか!こんなすばらしい幻覚はもう二度と味わえないんだ。よく噛み締めよう。
 浮力に負けて髪が乱れる。身体が浮き上がろうとする。部屋中がゆらゆらと揺れる。私は海草のようにたゆたう。
 コポコポと微かな音が聞こえる。水中世界で、すべての感覚が水に溶ける。私は魚になるのか?私は海草になるのか?私は液体になるのか?
 グラスの中の乾いた花が笑う。
 私はそっと、口を開ける。
 私は空気に満たされた室内で、溺れ死ぬ………?

<FIN>



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